プロローグ

十一月。グランプリの終わった鈴鹿サーキット。上空は厚い雲に覆われていたが、ピットの一角は、行きかう人々の波に揺れていた。
ヤムラ自動車のクローズドテスト。報道陣に明かされることなく行われる試験走行の主役は、一台のハイパーカーであった。
ガソリンエンジンと高出力モーターを内包したボンネットは、忍び込んだカメラマンを欺くかごとく、モノクロの幾何学模様に包まれている。
甲高いホーンに見送られて、ハイパーカーはピットロードを後にする。モーターの高周波音を、ターボエンジン特有の太い排気音がかき消していく。第一、第二コーナーからS字コーナー。書家の筆跡のように、ハイパーカーはしなやかにレコードラインをたどっていく。その様子は無線によってピットに設置されたサーバーへ逐一送られていく。まだコースインしたばかりであったが、敷き詰められた液晶モニターに表示された数値やグラフは、ハイパーカーが備えるポテンシャルの高さを実証していた。

《このセッティングなら上々だ。これがやっぱり【雷切】の実力だろ》
テストドライバーからの無線通信が、ピット内のスタッフが身に着けたヘッドセットに響く。
《コピー。》

チーフエンジニアが答えた。

《だが、誰に聞かれてるかわからん、その名前は出すなよ》
《ああ、わかった》
《コントロールラインを過ぎたら、一周アタックだ。これが最終テストだっつっても、無理はするなよ》
《オーケイ》

ハイパーカーは西ストレートを過ぎ、高速コーナー130Rへ。シケインで一気に減速し、最終コーナーへ。

《いくぞ》

テストドライバーの合図にこたえて、ハイパーカーのエンジンとモーター、パワーユニットを構成する二つの心臓が最高出力で回転をはじめる。カーボンファイバーで構成された車体はその加速にひるむことなく、しなやかなサスペンションを支えている。ハイグリップタイヤは電子制御されたトラクションを路面にたたきつける。
グランプリカーにも匹敵する加速と旋回性能。ハイパーカーは晩秋の空気を切り裂いて進んでいく。セクター1のタイムがモニターに表示されると、ピットからは期せずして驚きの声が漏れた。

《おい、飛ばし過ぎだぞ!》

チーフメカニックの忠告からの答えはない。ハイパーカーはヘアピンへ。強烈な減速にもひるむことなく、白煙を上げて急旋回、そしてまた急加速。その走りが、テスト走行の域を超えていることは誰の目にも明らかだった。

《おい、聞こえてるんだろ! ペースを落とせ! ボックス、ボックス、ボックス!》
《なぜだ》

ハイパーカーはスプーンカーブへ差し掛かる。右方向へのGを車体に受け、タイヤをきしませながらも前へ、前へと進んでいく。

《まだテストメニューは残ってるんだ!》
《でもよ、今日が最後なんだぜ!》

後ろから蹴飛ばされたような加速で、ハイパーカーは緩やかに上る西ストレートを駆けていく。スピード表示が見る見るうちに上がり、グランプリカーに匹敵する最高速をたたきだした。

《おい、みのる、見えたぞ》
《何を言ってるんだ、トージロー! ペースを落とせ! ボックス!》
《おい、すげぇぞ、俺には見えた! 神が、神が見えたぞ!》

叫び声と同時に、紙飛行機のように、浮かび上がる車体がモニターに映った。アンダーカウルに包まれた下面を見せて、ハイパーカーは宙を舞った。そう、舞を披露するように、それがあたかも仕込まれたムーブのように、カーボンの車体は画面の外へ消えていった。

《トージロー!》

チーフエンジニアは、ピットから駆け出した。彼だけではなく、ピットにいた全員が、ハイパーカーがコースアウトした、130Rの方向へ走り出していた。

この日の夜、ヤムラ自動車では緊急会議が開かれ、市販を前提に進められていた試作ハイパーカー開発の全面凍結、ならびに開発チームの解散が決定された。

ハイパーカーの存在は封印され、七年が過ぎた。