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地下鉄の階段を駆け上りきって、少女はひとつ大きく、息をついた。稲妻の描かれたリボンでまとめられたポニーテールが、上気した肩とともに揺れている。
顔を上げる。行きかうクルマの排気音は止むことなく、目の前の国道を激しく流れ続けている。その中にそびえる白いビルディングが描く曲線は、少女にとって、幼いころから父に何度も連れてこられた、思い出の風景であった。

「パパが帰ってくる」

涼川あゆみに連絡があったのは、「ミニ四駆選手権 カナガワ地区大会」が「すーぱーあゆみんミニ四チーム」の勝利に終わってから三日後のことだった。
あゆみの父、涼川みのるは、ヤムラ自動車レース部門のチーフエンジニアである。グランプリレースに参戦するチーム「マケラレーン・ヤムラ」に帯同し、三月から十一月の間、世界を飛び回る生活を続けている。その最終戦が行われたのが、カナガワ地区大会決勝と同じ日であった。あゆみは地区大会の勝利をすぐに報告したのだが、三日後の返信はそっけないものだった。

「《今日現地を発つ。話は本社で聞く、あした来い》ってさぁ……」

あゆみはひとり毒づいたが、気を取り直して歩を進めた。
事情を話して、今日のミニ四駆部は自主トレーニングと称して休みにした。部長権限で悪いな、とあゆみは思ったが、

「久しぶりに会うんでしょ、遠慮しないで」
「お父さんと離れてる寂しさ……わかるわ……」
「あゆみ! もしかしたらアローンに会えるかな? サイン頼むよ!」
「グランプリレーサーは、そんなに暇じゃない。あゆみ、行ってきな」

と、それぞれの表現で送り出してくれた。
潮のかおるヨコハマとは違う、トーキョーの乾いた空気を吸って、あゆみは改めて感謝した。激戦を戦い抜いた、仲間に対して。。

あゆみが指示されたのは、正面のショールーム入り口ではなく、奥の従業員通用口。あゆみは父から、非常用と称して関係者用のパスを渡されている。「ヤムラ」とロゴの入った白いカードを手にしてはいたものの、制服姿の中学生を見逃すほどヤムラ自動車のセキュリティは甘くなかった。

「お嬢さん、ショールームはこっちじゃないよ!」

カードを見せようとした一瞬前、守衛の声にあゆみは立ち止まった。ただ、毎度のことなので、もう慣れてしまっている。カードをそのまま掲げて言った。

「父が、ここに来いと」
「なに……関係者パス……涼川……ああ、涼川さんの! こいつは大変失礼!」
「いえいえ、いいのいいの」
「話は聞いてます、どうぞどうぞ」
「どうも……」

あゆみは通用口を通り、メールに示された地図にしたがって受付に向かった。控えている女性にパスを見せると、「承っております」と言ってブースを出た。

「ご案内いたします」
「あ、はい、ありがとうございます」

大人の女性の丁寧な対応に戸惑いながら、あゆみは女性の背中を追った。歩くうちに事務用のスペースから離れたのか、照明は暗めに変わり、機材の動く音がどこからか聞こえてくるようになった。

「こちらでございます」
「わかりました……って、ガレージ?」

金属製の扉の上に掲げられたプレートには、「ガレージA」の文字。

「ここ……ですか?」
「ええ。お嬢様がいらしたらここでお待ちいただくように、とのことでしたので。お父様には連絡していますから、じきにいらっしゃると思いますが……」
「そうですか……ありがとうございます」

女性は一礼して戻っていった。父が、普通に会うつもりはないというのは最初から理解していた。それでも応接室ぐらいには通されるだろうと思っていたあゆみの想像は、早くも裏切られた。であれば想像しても無駄と、意を決してあゆみは扉を開けた。
「ガレージA」の照明はついておらず、あゆみは手探りでスイッチを探して灯りをともした。真っ暗闇からLEDの光の中へ。ホワイトアウトした目が慣れてくると、「ガレージA」に置かれたものの姿が見えてきた。
大きい。それがクルマであるのは、自動車メーカーだから当たり前。しかしあゆみの目の前に置かれたクルマは、街で見慣れた箱型のフォルムではなく、全身を複雑な造形に包まれて佇んでいた。高速で風を切り裂くため、無数に取り付けられたエアロパーツ。ドライバーのためのスペースは必要最小限。、乗れる人間は運転手ひとりだけ。そして、溝のない四つのタイヤは細いアームに支えられてむき出しになっている。

「これって……マケラレーン・ヤムラの、グランプリカー!」

レースのために作られたクルマ、グランプリカー。ミニ四駆でもRCカーでもない、世界を渡って戦いを繰り広げたばかりの本物がそこにあった。