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なぜ、何のために、誰が、という疑問を振り払って、あゆみは駆け寄った。世界20ヶ国を旅しながら、各国で最高格式のレースを行うグランプリレース。使われるクルマは各チームのオーダーメイドであり、その価値は金銭では推し量ることができない。車体はすべてカーボン複合材。ヤムラ自動車が提供するパワーユニット、その中心はダウンサイジングされたターボエンジン。それに最新のハイブリッド機構が加わっているため、動力の半分はガソリンではなく電気によって賄われている。
ため息をつきながら、あゆみは細部をのぞき込む。折り重なったエアロパーツ、表面は美しいメタリックグレーに塗装されているが、内部はカーボンファイバーの模様がむき出しになっている。カーボン素材はミニ四駆でも使うが、その量、使い方のいずれも目の前のクルマとは比べようもない。

「それにしてもこんなクルマを造る人も造る人だけど、運転する人も運転する人だわね。まったく信じられないわ」
「それハ、ほめているのですカ?」
「もちろんそうよ……って!」

あゆみの全神経はクルマの観察に集中していて、ガレージに人が入ってきたのに気が付かなかった。外国語の混じったイントネーションに気づく間もなく、あゆみは振り返った。

「Hello, Super Girl.」

南ヨーロッパ特有の、彫りの濃い顔。濃いあごひげ、濃い眉毛。背は男性の標準からは低いかもしれないが、ポロシャツの袖口から伸びる太い腕は、強力な筋肉が一本に凝縮しているようだった。ポロシャツの胸には、マケラレーン・チームのロゴマーク、そしてヤムラ自動車の「Y」のマーク。あゆみは目の前にいる人物だ誰だか、ようやく理解した。雨のジャパンカップ、その日に行われた日本グランプリで、マケラレーン・ヤムラのパワーユニットを「ミニ四駆モーター」と呼んだ男。二度のシリーズ制覇を成し遂げたグランプリレーサー……。

「フェルナンデス! アローン!」
「はじめましテ」

目と口を大きく開いたあゆみの手をとって、アローンはぎゅっと握った。

フェルナンデス・アローン。
弱小ミンナデェ・チームからグランプリデビュー。たびたび上位陣を食う走りを見せて脚光を浴びる。1年のテストドライバー生活を経てワークスチーム「ラニーニャ」に加入、初優勝を成し遂げる。そして歴代最多勝を誇るマイケル・カイザーと激しい戦いを展開したのちに、2年連続でシリーズチャンピオンを獲得。その後は優勝請負人として名門チームを転々とするものの運に恵まれず十年間、王座から離れている。
そして今年、キャリア最後のチームとして選んだのが「マケラレーン・ヤムラ」だった。

「は……ハロー」
「ハハハ、日本語でオケ」
「え?」
「あゆみ、フェルナンデスは、日本でレースをしてたことがあるんだよ」

ガレージに入ってきたのはアローンだけではなかった。薄汚れたツナギと、白髪の目立ち始めた無造作な髪。胸につけられたIDカードには、「涼川みのる」と刻まれていた。

「パパ! これって!」
「いやあ、メールを貰ったとき、近くにいたフェルナンデスに、あゆみがミニ四駆の大会で地区優勝したんだって話したら、ぜひ会ってみたいって。大変だったんだぞ、スケジュールここしか空けられなくて」
「は?!」
「その通りでス。日本のBoys & Girls、みんなレーシングカーのチューナーって聞いてまス。そこで勝ち進むなんて、ファンタスティック!」
「あ……ありがとうございます……」

数字上の成績こそ、アローンと同レベルのレーサーは歴史上に何人かいる。しかし目の前の敵に食らいつき、非力なクルマであっても全力で食らいつき、仕留める、そのダイナミックな走りは他の誰にも似ていない。その「グラランプリのサムライ」と呼ばれるレーサーが、目の前にいる。あゆみは震える足で、立っているのが精いっぱいだった。

「So、あゆみサンに会って聞きたかったことがありまス」
「は……な、なんですか?」

アローンは、数歩すすんで、自らの仕事場であるコクピットを眺めた。

「あゆみサン、レースは楽しイ?」
「えっ……あ、はい」
「勝つことができなくなってモ?」
「う……」

振り返ったアローンの瞳は、それまでの和やかな雰囲気をかき消して、真剣勝負に挑むレーサーの色をしていた。あゆみは、その迫力に押され、答えることができない。

「だよネ。《勝ち》を覚えちゃうと、《負け》を許せなくなル」
「そう、ですね……ア、アローンさんもそうですか?」
「モチロン」

あゆみは思わず父をにらんだ。日本グランプリの「ミニ四駆モーター」発言は、モータースポーツメディアにとっては格好の話題となり、ヤムラを批判する記事があちこちに掲載された。みのるはその度に前向きなコメントを記者に伝えてはいたが、それが記事になることはなかった。みのるはあゆみの視線を感じ、肩をすくめた。

「ああ、みのるサンをせめるつもりはありませン。マケラレーン・ヤムラのみんな、一生懸命にやってます」
「じゃあ、やっぱり勝てないのは」
「つらいですネ。でも大事なのは結果じゃなくて、今のベストを尽くすこと、それが目標になってるかどうか、じゃナイ?」
「あ……」
「今度はJapan Championshipだって聞いてまス。戦うの、激しくなると思いますケド、最後まで目標を捨てないデ」

アローンにパン、と肩を叩かれて、あゆみの頭の中は真っ白になった。

「さあ、あゆみ! このクルマをショールームに出さないといかんのだ。また今度ゆっくりな」
「え、あ、あたしはパパに会いに来たのに!」

あゆみの言葉をかき消すように、ヤムラの真っ白な作業服を着たスタッフが入ってきて、マケラレーン・ヤムラのクルマはクッション材に包まれて見えなくなった。
手を振るアローンを目で追いかけながら、あゆみはガレージの外へと連れていかれた。
あゆみと父との一年ぶりの再会は、うやむやのまま終わってしまった。