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ぼんやりした意識のまま、あゆみは建物を出た。白く、丸いビルディングは変わらずにそびえている。来た時には気が付かなかったが、壁面に下げられたバナーに、「ヤムラ モータースポーツ感謝祭 マケラレーン・ヤムラ グランプリカー特別展示」と書かれていた。
右手には、アローンに握られた感触が残っている。外の風に吹かれて、ほんの数分前の出来事が遥か昔の出来事のように思い出される。
パパは相変わらず、グランプリの世界、華やかなレースの世界に生きている。あゆみは空に手を突き出して、握った。

「追いつかなくちゃ」

独りごちたとき、風が吹いた。ビルの谷間を駆け抜ける強い風。それに流されて、あゆみの目の前に何かが飛ばされてきた。手を開いて、反射的につかみ取る。それが何なのか確かめる前に、もう片方の手で抑え込んだ。

「ごめんなさい!」

少女の声に、あゆみは振り返った。あゆみと同じ年頃の少女が、風にあおられないようスカートを抑えながら走ってくる。あゆみがつかんだのは、青いベースボールキャップだった。正面には白い「EMOTIONAL」という文字が刺繍されている。

「これ、あなたの?」
「うん、ありがとう」

手渡したとき、どこか外国の香りがする、とあゆみは思った。トーキョーであれば色々な個性があって当然。あゆみはそう思いながら、彼女とすれ違うつもりだった。

「ん?」
「え?」

二人とも、踏み出した一歩は同じ方向だった。

「あなた、ヤムラのショールームに?」
「キミも?」
「うん!」
「わたしは、今日からグランプリカーが展示されるって聞いたから」
「そ……そうなんだ」
「それにしても、女の子がひとりで?」
「女の子でも、ひとりでもいいじゃない!」
「だよね!」

二人は、顔を見合わせて笑った。それが、ファーストコンタクトだった。

ヤムラのショールームには、今シーズンを戦ったレーシングカーが数多く展示されていた。国内のレース、海外のレース、二輪、四輪、あらゆるカテゴリーの中から特に目立った成績をおさめたものがずらりと並べられている。
少女は、ツーリングカーやGTカーには目もくれず、ショールーム中央の空間に向かった。あらゆるレーシングカーの頂点に立つべき存在のため、その場所はひときわ広く確保されていた。

「まだかな……。そろそろかな……」

期待に揺れる背中を見て、あゆみはつい十数分前の出来事を話したい誘惑にかられたが、こうべを振ってこらえた。自慢したい、喜びをつたえたい気持ちはあるけれど、自分だけの思い出にすべきだと、あゆみは理解していた。

「きた!」

少女の声に顔を上げると、「ガレージA」に通じる扉が音を立てて開いていく。暗がりの中から、メタリックグレーのフロントウイングが現れると、ショールームの客からも驚きの声が上がった。外国人のメカニックと、警備員に囲まれて、マケラレーン・ヤムラは美術品のようにあつかわれ、誘導された。見映えを考えて車体の角度やタイヤの舵角が調整される。少女は、その様子を食い入るようにじっと見つめている。
会話が途切れてしまったので、あゆみは何げなく尋ねた。

「グランプリカー、好きなんだ」
「ええ、もちろん」

あゆみには目を向けず、少女は全体のほとんどがカーボンで作られた、異形のクルマに集中している。

「速く走るために、できることは全部してあるから。決められたレギュレーションの中で最高のものを作るために、どれだけの時間とお金が使われてるか、わからないもの。そういうところ、極めてる感じが、私は好き」
「そうなんだ……」
「だからああやって」

不意に少女は、あゆみを真正面から見つめた。

「その辺のクルマみたいな恰好で、レースをするなんて、私は信じられない」

あゆみは、マケラレーン・ヤムラ以外のクルマが、市販車ベースのレースカーであることに、その時はじめて気が付いた。リヤウイングが追加されていたり、フェンダーが拡張されたりしてはいるが、全体のフォルムやヘッドライト、グリルのかたちは確かに市販車のそれそのものだ。

「その辺の……って、形はそうだけど、ハイパーGTとかって、なんていうか、中身はほとんどグランプリカーと変わんないよ?」
「だからこそ、よ。速く走りたいのなら、むき出しの姿で走ってもいいはず。それなのに、不自然に形をつくろうとするから。極めてないんだよ、こいつら」
「そうかな……」

少女は、あゆみから目を背けた。

「だから私は、こいつだけが見たくて来たんだ。あとは、別にどうでもいい」

レースカーに囲まれた中、同世代の子と仲良くなれた気がしたのに、一方的に扉を閉められた。あゆみは次の言葉を探したが、何もみつからなかった。「これは、あたしのパパが作ったパワーユニットを積んでて…」なんて言ったところで、この場の空気は変わらない。それほど圧倒的な拒絶が、少女の背後から発せられている。あゆみはそう感じた。

「行こっか」
「うん」

二人はショールームを出た。青山墓地に向かう横断歩道を渡る少女の背中、くすんだ青のベースボールキャップ。あゆみの気持ちの中に、固いしこりのようなものが残った。