8

楽屋を明け渡したものの、中で何が起こっているのかを、全員が知りたがっていた。少女たちはドアの周りに群がり、漏れてくる声に神経を集中させていた。
志乃ぶは、サリーヌとルナが語る断片的な言葉と、今まで経験してきたことを、脳内でつなぎ合わせる。
猪俣ルナ、ことマァス=ドオリナ=サレルナは、セルジナ公国の皇女で、継承権は第三位にあたる。
ルナには姉がふたりいるが、何れも皇室を飛び出してしまい、皇位を継ぐつもりはないと言われる。
その二人の姉のうち一人が、《チッカ・デル・ソル》としてアイドル活動を行っているサリーヌ。ふたりが会うのは五年ぶり。それは逆算すると、志乃ぶの小学校にルナが転校してきた時期と重なる。
そしてセルジナ公国の重要人物であるルナに万一の事が起こるのを未然に防ぐため、何人ものSPが日本に送り込まれており、志乃ぶが不審者と勘違いしたのも、そのメンバーであった。

「はあぁ……」

余りに大きなスケールの話に、志乃ぶは足元が崩れるような感覚を覚えた。
結局、ルナはもともと住む世界が違う人間だったのだ。そこに対抗意識を燃やしたところで、意味はなかったのだ。
そんな思考の行き止まりにぶつかったところで、楽屋のドアが開いた。

「みんな、入ってくれる?」

ルナが、申し訳なさそうに言った。
うながされるままに、外で待っていた少女たちは部屋に入った。中心には、先刻まであふれんばかりにエネルギーを発していたサリーヌが、静かに立っていた。志乃ぶは、ずっと憧れていた女性のはずなのに、これまで見てきたのとは違う、《気品》とでも呼ぶべきものがサリーヌの内側から発散されているのを感じた。それは、ルナからたびたび感じるものと同じ感触だった。

「みんな、なんかおかしなことに巻き込んじゃって、ごめんなさい」

全員が部屋に入ってから、ルナが頭を下げた。瞳の周りは赤く色づいていたが、涙は流れていない。

「詳しいことは……あんまり言えないんだけど、姉さん、いや、《チッカ・デル・ソル》のことはこれからも応援してほしいし、私も、今まで通り変わらないつもりだから、だから……」

言葉に詰まる。小さく息をついてから、サリーヌが言葉を継いだ。

「私からも。みんな、ありがとう。お人形みたいだったサレルナが、こうして、たくましく育ったのも、みんなのようなアツい仲間と出会ったからだと思う。本当にありがとう」

サリーヌが深く頭を下げる。虹のように、鮮やかな髪が流れた。

「それと、ミニ四駆がサレルナを強くしたのかな。私も、《ハッピーストライプ》とステージをやらせてもらう事になってから、少し調べてみてたんだけど……そう、もともとここに来たのは、《ジャンヌ》にこれを見てもらおうと思ったからだよ」

サリーヌは、鏡台に置いてあったメイク道具のケースを開けた。プラスチックが軽くぶつかる音は、部屋にいる誰もが聞きなれたものだった。

「姉さん、これ……」

ルナが両手を口元に当てて、声にならない驚きをかみしめる。

「ミニ四駆、かっこいいでしょ。フェスタジョーヌLっていうんだって」
「うん、知ってる」

リヤウイングを取り払い、ロードゴイングカーに近いスタイルになったフェスタジョーヌ。そのボディは半透明のイエローに彩られ、ホワイトのシャーシがうっすら表面に浮かんでいた。

「こういうクルマが好きなのは、ルナの方がママンに似たのかもね」
「もう、やめてよ、恥ずかしいから」

ルナが顔を赤らめた。今まで見たことのない表情に、志乃ぶは頬をゆるめた。
自分がそうであるように、ルナもまた、「よそ行き」のキャラクターをつくっていたのだと、志乃ぶは気が付いた。そして、それを意識せずに自然に話せる相手が家族であり、故郷から遠く離れた日本で、不意に家族に会ってしまったら、冷静でいられるはずもない。志乃ぶは大きな温かい気持ちと、ほんの少しの悔しさを胸の中で感じていた。

「あと、ルナをここまで連れてきてくれた彼女は?」
「しーちゃん」
「え、あ、私ですか?」

感慨にふけっているところに声を掛けられ、志乃ぶは声を裏返させながらサリーヌの前に進んだ。

「あなたの勇気に、そしてルナを守ってくれようとしたことに、感謝するわ。頼りない妹だけど、あなたが構わなければ、これからも仲良くしてあげて」
「頼りないだなんて、そんな、あの、私は、いや、別に好きとかじゃなくて、あの」

しどろもどろの志乃ぶの肩に手を伸ばし、サリーヌはそっとハグした。志乃ぶは全身の血液が固まってしまったかのように動かなくなり、そのままもといた場所へ倒れ込むように戻っていった。

「あんまり引き留めても悪いから、こんなところかな」
「あの!」

立ち去ろうとするサリーヌに、あゆみが声を張り上げた。

「あなたは?」
「あたしは、猪俣さん、あいや、ルナさんにお世話になってるミニ四駆チーム、《すーぱーあゆみんミニ四チーム》キャプテンの涼川あゆみです!」
「涼川……あゆみ……」

サリーヌが怪訝そうな表情を浮かべるが、あゆみは構わず言葉を続ける。

「今日のステージ、本当に、迫力ありました! あたしたちの何十倍もパワーがあって、本当に感動しました! でも、あたしたちもルナさんと、《チッカ・デル・ソル》さんに負けないように、ミニ四駆日本一を目指して頑張ります!」
「涼川……ああ!」

力を込めた決意の言葉の先に、感動の場面を想像していたあゆみは、思ってもいない反応に困惑する。

「あなた、ひょっとして、涼川みのるさんの娘さん?」
「え?」
「そう、さっきのミニ四駆と、ママンのことを考えてたら、思い出したのよ。まだルナがウチにいたとき、こういうカッコいいクルマ、スポーツカーというかスーパーカー? の紹介をしにきた日本人がいたって。そう、その人が涼川みのるさんよ」
「父は、確かに、ヤムラで働いてますけど……」
「そうそう。で、結局、紹介してくれたクルマって開発中に問題があったとかで、販売中止になっちゃったのよね」
「販売中止?」
「わざわざ、偉そうな人が沢山きて、ママンに謝ってたのを思い出したわ」
「販売中止、って何なんです? あたし、そんなのパパから全然聞いたことないです」
「あら、そう? 私もこっそり聞いてただけだからよくはわからないけど。でも、訪ねてきた人が《涼川》さんってのは覚えてた、っていうか今思い出したんだけど」
「パパが……スーパーカーを……それに、中止?」

硬直した空気に、サリーヌも次の言葉を探していた。その時、開け放たれたドアからスーツ姿の男性が入ってきて告げた。

「《チッカ》さん、もう、お時間です」
「あら。じゃあ……サレルナ、元気でね!」
「うん、姉さん、いえ、《チッカ・デル・ソル》も!」

ひとつ、キラッと音が聞こえそうなウインクを残して、サリーヌは部屋を出ていった。あたたかな空気に包まれた部屋の中で、あゆみだけは固い顔で、手のひらのイヤな汗を握りしめていた。

「父さん……スーパーカー……開発中止……」

……お父様は、お元気? ……

ふと、その言葉を投げかけた少女の姿が浮かび上がる。レースを前にして、唐突に父親の話題をふってきた不自然さに、今更ながらあゆみは気づく。

「瀬名さん……。何を知ってるの? あたしの知らない、パパの何を知ってるの……?」