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コンクリートに囲まれた、学校の教室と似た広さの空間に、少女は立ち尽くしていた。四方のうち正面に壁は無く、屋外に向けて開け放たれている。奥の壁際には新品のタイヤが積み上げられ、無数に置かれた金属製のラックの上には、黒い油にまみれた機械が整然と並べられている。

少女は、ここを大人たちが「ピット」と呼んでいたことを思い出した。

ピットの使用者である大人たちは、いま少女に見向きもせず、あわただしく駆け回っている。表情はわからない。とにかく忙しく、切羽詰まった、あわただしい空気が伝わってくる。

「どうしたんだろう」

傍らからあがる声を聞いて、もう一人、自分と同じ年頃の少女がいる事を思い出した。心配そうにあたりを見回す手には、ブルーの帽子が握られている。

わからない、と答えようとするが声は出ない。口を開いても、息が漏れるだけで言葉にはならない。手に力は入らず、足も動かせず、その場に立ち尽くす他にない。しかし、目と耳は大人たちの動きや声を確かに伝えてくる。少女が、声を出そうともう一度口を開いたとき、一人の大人が足を止めた。

「ごめん、ちょっと大変なことになった。二人とも、ここは危なくなるからさっきいたところ、モーターホームに戻っていなさい」

一方的にそう告げると、大人は足早に走り去っていく。傍らの少女が慌てて一歩を踏み出す。背中を捕まえようとしたのか、伸ばした手からブルーの帽子が落ちて、コンクリートの床に触れる。

「パパ、待って!」

転がった帽子を放ったまま、傍らの少女は走りだす。「パパ」にすぐに追いついて、言葉を交わす様子が見える。少女は、足元に落ちた帽子を拾い上げながら独りごちた。

「パパ……。……お父さん」

今度の声はなぜか、すんなりと出た。

今いる場所、ピットの先に見えるのは、アスファルトの路面と、壁のようにそびえたつ観客席。そう、ここはサーキットという場所。国内有数の規模を誇る「鈴鹿サーキット」だと、その人は教えてくれた。

「お父さん」

感覚がはっきりするにつれ、何が起こっているのかも少女は思い出していく。「鈴鹿サーキット」で行われている、新しいクルマのテスト。それを運転するのは、お父さん。塗装されず、真っ黒な素材をむき出しにしたクルマはさっきまでそこにあった。しかし今は、止まるべき位置を示す、白い線が引いてあるだけ。

「……お父さん……」

その黒いクルマに乗り込んで、お父さんはサーキットに向かっていった。窓ガラスの奥、ヘルメットの中に見えた目は、いつもと違って、どこか遠くの方を見ているようだった。その視界に自分は入っていない。もっと、はるか遠くを見ていたような気がする。

ピットロードを、赤いランプをともしたクルマが走り去っていく。その回転するランプの意味を考えるまでもなく、少女は叫んだ。

「お父さん!」

瀬名アイリーンは叫びながら、ベッドで身体を起こした。息は荒く、肩が上下に揺れている。ホテルに備え付けられた寝間着は、全身にかいた寝汗のせいで、わずらわしくまとわりついてくる。

「……夢……」

ふわっとした真っ白い布団が、自宅から遠い場所であることをアイリーンに伝える。白い天井、白い壁。前年度の「ミニ四駆選手権」上位チームのメンバーには個人部屋が用意されている。相部屋だったら、チームメイトにこの姿をさらしているところだった。

「しばらく見てなかったのに」

ため息をついて、アイリーンはベッドから降りた。窓辺に近寄ってカーテンを開けると、眼下には知らない街並みが広がっている。日曜日の繁華街、朝の人通りは少ないが、信号待ちの車列が絶えることはなかった。その様子を一瞥して、アイリーンはカーテンを閉めた。そしてシャワールームに向かう。

「あの娘と、会ったせいか……」

寝間着を脱ぎ捨て、すこし冷たいシャワーを浴びる。細い水の線が、熱を帯びた体に心地よい。アイリーンは目を閉じて、刺激に身をゆだねた。夢の中の肌触りを、早く忘れられるように、と。