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夕陽が入り込むマラネロ女学院の教室に、秀美は一人たたずんでいた。
すでに代替わりした《スクーデリア・ミッレミリア》こと「ミニ四駆レーシング部」に顔を出し、いくつかコメントを残してから帰る。それが秀美のルーティンになっていた。セッティングや戦略について語り、ハイスピードで流れる《バーサス》の映像を見ていると、自身もマシンを取り出したい誘惑にかられるが、それは自身が禁じ手とした事だった。
バッグに教科書やノートを詰めてしまえば、この場にとどまっている理由はない。秀美が教室を出ようとしたとき、勢いよくドアが開いた。

「こっちに、いたのね」
「奏……」

明らかにデザインの異なる制服が、見慣れた教室の中で異質な存在感を出している。不意をつかれて秀美は目を見開いた。

「何で、この学校に奏がいる?」
「生徒会の、交流行事の一環としてね。きちんと学校を経由して話は通してあるから。勝手に入ったんじゃない。安心して」
「そこまでするとは大した覚悟ね。だとしても、別にもう、話すことはない」
「待って!」

脇をすり抜けて立ち去ろうとする秀美を、奏は体で止めた。髪が揺れ、秀美の顔を撫でて広がる。秀美は足を止めた。

「何を」
「秀美、やっぱり、私考えたの」

近づいた距離を適度に保とうと、奏は一歩後ろに下がる。

「今度の全国決勝レース、私たちの実力じゃ勝てない。絶対に勝てない。完走できればいい方かなって正直思ってる」

伏し目がちに語る奏を、秀美は黙って見つめている。無言の時間に押されるように、奏は言葉をつづける。

「勝つことがすべてじゃない。それぞれが実力を発揮して、レースのすばらしさを分かち合う場なのはわかってる。でも、それでも、やっぱり出るからには勝ちたい。そう思うの。
甘いかも知れない。身の程知らずかも知れない。決勝を経験してるあなたに比べれば、全然、何もかも足りないってことはとっくにわかってる」

一気にまくし立てて、奏はむせる。秀美は無言で一歩踏み出す。秀美の端正な顔立ちが目の前に迫り、奏は慌てて距離を置く。

「どうした? 続けてよ」

秀美が穏やかに、しかし威圧感を持って言う。

「わかってるけど、やれることは全部やりたい。妥協なんてしたくない。私には、あなたみたいな技術も、閃きも、人を引き付けるものも、何にもないけど、でも、今回は絶対に逃がせないチャンスだから……」

奏が言葉に詰まる。秀美の背後から夕陽は深く差し込んで、逆光の中、表情が読み取りづらくなってくる。

「変わったわね」
「え?」
「変わったわ。奏と最後にレースをやって、あなたが負けて、ミニ四駆をやめたあの日から比べると、本当に」
「それは……」
「あの娘が、奏を変えたのね。涼川あゆみが」
「えっ、いや」

否定の言葉は、もう一歩踏み出した秀美の迫力に負けて口に出せなかった。奏は足を後ろに伸ばすが、廊下側の壁に阻まれる。背中が壁に着く。秀美は、奏の顔をかすめるように手を伸ばし、壁に着いた。鈍い音がして、掲示物が揺れた。

「やれることは全部やるって言ったわよね」
「くっ……」

秀美の口元から漏れる息が、奏の前髪を揺らし、眼鏡のレンズを曇らせる。目を背けそうになるが、奏は正面を向く。

「やるわ。それで秀美が参加してくれるなら、何でもやるわよ」
「そう」

秀美が自分に、友人とは違う感情を抱いていることは、理解していた。それが冗談でないことは、秀美がトゥインクル学園を訪れ、あゆみと《バーサス》でのレースをしたときに改めて思い知った。
受け入れるつもりは毛頭ない。奏はそう思いながらも、それ以外に方法がないという結論にたどり着いていた。
秀美との距離が限りなくゼロに近づく。胸の鼓動が、早まる血流の音が聞こえてしまいそうだった。奏は目を閉じる。

「妬けるわね」

その言葉と同時に、奏の額に熱い点ができた。そして、秀美の気配が遠ざかるのを感じて、瞳を開く。

「秀美……」
「そこまでされちゃ。……悔しいけどね」

穏やかな微笑を浮かべた秀美は、無言でひとつ、うなずいた。

「いいよ、やるよ」
「えっ」

予想していなかった言葉に、奏は言葉を失う。

「優勝したら、改めて、今の続きをやらせてもらうよ」
「なっ……」

ただでさえ赤くなった奏の顔が、黒さを帯びるほどに赤くなる。

「ただ、《スクーデリア》の後輩たちに納得してもらわないと。部活のOGっていう私の立場があるから」
「どうすればいい? 私から、今の人たちに説明して、きちんとお願いする?」
「それじゃ、逆効果よ」

今度こそ、秀美は奏の脇をすり抜け、教室のドアを開け放した。

「レースをやろう。それが一番の方法だ」