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残り三周。シナリオ通りであれば、この周回で秀美はスピンする。奏はその脇を通って先行、ゴール。タイミングは秀美に任せてある。後ろから迫るマシンがどうだろうと、秀美との取り決めを果たせれば問題ない。

でも、本当にそれでいいのだろうか? ホームストレートの先に、マッハフレームの姿は見えない。今の時点での、秀美との実力差はこれほどまでにはっきりしている。それを、すでに合意が取れているとはいえ、故意に覆すということがあっていいのだろうか?

奏の口から嗚咽が漏れる。実際にスピンを演じるのは秀美のはずだが、タブーを犯すことへの恐怖心が今更ながらにわいてくる。コントロールラインを過ぎて、一コーナーが近づいてくる。ひょっとしたら、もう秀美は仕掛けを始めているのだろうか? その時、私は……

「邪魔だぁっ!」
「えっ!」

一コーナーを緩やかにターンしようとするエアロアバンテのインサイドを、ラウディーブルが突く。奏は、そのアクションを全く意識していなかった。リヤエンドにラウディーブルのバンパーが激突する。衝撃音が《バーサス》内、そして体育館中に響き渡る。
二台の青いマシンが、もつれるようにコースを外れ、グラベルを横切っていく。

「おーい! お前、何すんだよ! ブル、ほら、しゅーみーを追いかけるぞ!」
《Negative.》

尚子の叱咤にも応えず、ラウディーブルはタイヤバリアに正面から突っ込み、動けない。その傍らには、リヤの部品を大きく破損したエアロアバンテが、うっすら白煙を上げながらスタックしていた。

「くっ……」

奏は顔を伏せた。本来このコースにいるはずのない、このレースにいてはならないマシンに接触し、リタイヤしてしまった。秀美が、自分と、《すーぱーあゆみんミニ四チーム》のために作った舞台は、漫然としたコーナリングのために台無しになってしまった。その後悔と情けなさが、奏の全身を包んでいた。

その間に秀美は、予定していたスピンをすることなく周回を続け、先頭でチェッカーを受けた。体育館にかけつたマラネロ女学院の生徒たちは大歓声を上げ、あゆみは緞帳をつかみながら唖然とするしかなかった。

「赤井さん、おめでとうございます!」

司会の生徒が、打ちひしがれる奏などお構いなしに、マイクをもって秀美のもとへ駆け寄る。秀美は、ひったくるようにそのマイクを奪い、声を上げた。

「万代尚子! まだログインしているんだろう! 答えろ!」

鬼気迫る秀美の声に、体育館中が静まり返る。奏もただならぬものを感じて顔を上げた。

「なーにー?」

もう興味をうしなった、と言わんばかりの甘い声が響く。神経を逆なでされて、マイクを握る秀美の手に力が入る。

「よくも、私と奏の神聖な戦いをぶちこわしてくれたな! 万代、自分が何をしたのかわかってるんだろうな!」
「えー? 全然わかんないー。ていうか、そっちのエアロアバンテ遅すぎー、つまんないー」
「万代!」

一喝。あゆみは、その迫力に押され、思わず一歩あとずさった。

「万代、お前のその態度が続くのも全国決勝のスタートまでだぞ! 私が、お前のそのひねくれた根性、サーキットで矯正してやるぞ! よく、覚えておけ!」
「ふっふーん、そうなんだー。じゃあ、楽しみにしてるねー。バイバーイ」

尚子のログアウトを告げる効果音が響く。

「えーと、赤井さん、改めて……」

予備のマイクを持ってきた司会の生徒が恐る恐る尋ねる。秀美は集まった生徒に向き直り、一歩踏み出して口を開いた。

「皆さん、応援して下さってありがとうございます。このレース、私が勝ったら、好きなようにさせてもらうって言った通り、《ミニ四駆選手権》には参加せず、まあ、何か考えさせてもらうつもりでした。」

秀美が、マイクを一度口元から離す。

「秀美……」

奏が、胸の前に手を置く。振り向いた秀美と目が合う。少し目を細めて、秀美は再びマイクを口に近づけた。

「ただ、今見ていただいた通り、本来このレースにいるはずのない、いてはならないチューナーによって、踏みにじられた想い、それを目にして、逃げるわけにはいきません」

秀美の言葉に、館内がざわつく。舞台袖のあゆみが落ち着いていられず、ステージ上の奏のそばへ駆け寄った。奏は、すっと伸びた秀美の背中を見続けていた。

「私は、《ミニ四駆選手権》に、彼女たち《すーぱーあゆみんミニ四チーム》の、六人目のメンバーとして参加します。そして、レースの尊さ、チューナーの誇りを取り戻すために戦ってきます」

歓声が上がった。
マイクを司会に戻してから、秀美は奏に向かい合う。

「そういうわけで、よろしく頼む」

奏の肩に手を置いてから、秀美は舞台袖へと歩いていく。

「秀美!」

奏は秀美を追う。

「エンプレスの参加表明が出たところで、今日のゲストとしてお越しいただいていた、《すーぱーあゆみんミニ四チーム》のキャプテンである涼川あゆみさんにもお話を伺いましょう!」
「え?」

あゆみの前にマイクが突きだされる。全く予想していない展開に、あゆみの眼前が真っ白になる。その間に、秀美と奏はステージ上から姿を消していた。

「待って! 秀美!」

舞台袖の暗がりの中、奏は呼んだ。秀美は立ち止まる。だが振り返ることはしない。

「あの……」

奏は呼び止めたものの、何を話していいのかわからない。感謝、恥じらい、情けなさ、いくつもの感情が自分の中でわいては消えて、またわいてくる。うまく言葉にすることができず、奏はいら立つ。

「今度また、もう一度だ」

秀美が、ささやくように言う。

「それって」

奏が、秀美の肩へと手を伸ばした時、すりぬけるようにして秀美は歩き始めた。暗がりに背中が溶けていく。奏は追いかけていくことができず、しばらくその場に立ち続けていた。

夕刻、《ミニ四駆選手権》のエントリーリスト上、《すーぱーあゆみんミニ四チーム》のメンバーに、追加メンバーとして赤井秀美の名前が刻まれた。そのニュースは「女帝ふたたび」というタイトルで参加チーム、ファンの間へと瞬く間に広まっていった。

すでに決勝レース開催まで三週間を切っていた。