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汗に濡れたバイザーを外す。ハンガロリンクの乾いた風は消え、パーテーションのベージュの壁が視界の大半を占めている。ルナは、全身を包む疲労感に、思わずため息をついた。

「やったよ!」

ルナの胸元に、あゆみが飛び込んだ。突然の出来事に、ルナは身を固くする。

「え? どういうこと?」

《V.A.R.》が《フライング・フレイヤ》の前を走り、《すーぱーあゆみんミニ四チーム》を含めた3チームが二勝一敗で並んでいたはず。ルナは最終結果を見ずに《バーサス》からログアウトしたために、いまの状況がわからない。

「あゆみちゃん、どうなったの?」
「あ、あ、あ! あたしたち、決勝に残れたんだよ!」
「えっ?」

嬉しいよりも先に、なぜそうなったのかが理解できない。困惑するルナに、奏が声をかけた。

「あっちのレースでも、ファイナルラップで逆転があったのよ」
「《フライング・フレイヤ》、羽根木さん! そうなると」
「そう、《フライング・フレイヤ》は三連勝でトップ。私たちは二勝一敗で二位になったのよ」
「そうですか……」
「そうだよぉ~!」

胸元に、涙があふれた顔を押し付けてくるあゆみ。冷静を装いながらも、結果をかみしめて瞳がうるんでいる奏。姉妹ではしゃぎ、手をつないで飛び跳ねるたくみとたまお。ルナはしかし、どうしても、ストレートに喜ぶ姿勢になれなかった。

「あゆみちゃん、ちょっと、もういい?」
「うわーん、ありがとうー!」

引きはがすように、ルナはあゆみとの距離をとって、出口の扉へと駆け出していく。

「ちょっと、猪俣さん?」
「ごめんなさい会長、すぐ戻ります!」

人工芝の上、立ち並んだピットの間を縫って、ルナは走った。ピットは予選ラウンドのブロックごとにまとまっているので、目指す場所までほんの数秒であったが、もどかしい感情がルナを焦らせていた。
目的のピットに着いて、ルナは扉をノックした。鈍い音が消えぬ間にルナは声をかけた。

「ごめんください! あの、岡田さん! 猪俣です!」

数分、いや数十分にも思える時間を置いて、扉は開いた。

「猪俣、さん……?」

あきらの顔が見える前に、ルナは深く頭を下げた。

「ごめんなさい! あの、岡田さんたちの……その……大切な……」
「なに? いきなり……。それより、おめでとう」

予想していなかった言葉に、ルナは顔を上げる。
あきらの表情は、出会った時よりも透き通った、のしかかった何かが消えたような、印象をルナに与えた。

「ありがとうございます。でも、私たち、」
「あのね」

ルナの言葉をさえぎって、あきらが言う。

「最後まで、一緒に走らせてくれて、ありがとう」
「岡田さん、《最後》って、どういう」
「そのままの意味よ。私たちのチームは、決勝へ進めなかった時点でおしまいってこと」
「やっぱり……」
「あなたに言ったよね。私たちの爪痕を残したいって」
「はい」
「あなたに抜かれるまで、ファイナルラップに入っても、それは勝つことだって思ってた」

ルナは、あきらから目をそらす。《Z-TEC》という、マシンのポテンシャル以上のものを使って《マッドレイザー》を抜いたことを、ルナは悔いた。

「でもね、《フェスタジョーヌ》のテール、キレイに仕上げてあるリヤ周りが見えて、そうじゃないんだって思った」
「そうじゃないって、どういうことですか?」
「私のマシン、リヤローラーのビス、ちゃんと締まってなかったんだよね。前のレース、その前のレース、どうしようもないくらいに差がついて、きちんとメンテナンスできてなかった。でも、そんな風になっちゃっても、最後まで走り続けたい、って思った」

ルナは、何も言う事が出来なかった。どんなエピソードがあったにせよ、勝ったのは《すーぱーあゆみんミニ四チーム》であり、あきらを抜いたのは自分である。その事実が、ルナにとっては苦しさでしかない。

「だから、あれでよかったと思う。私も不思議と、悔しいとか、悲しいとか、今はもうないもん」

ルナは顔を上げる。確かに、あきらは泣いていない。

「最後の最後まで、ギリギリの勝負ができた。命が削られるような、チリチリした感じが味わえた。だから……だから、ありがとう。ファイナルラップまで、本当のレースができたから。それこそが、私が、私達が探していたものだから」
「岡田さん……」
「だから、負けないでね」
「えっ?」
「優勝、してね」

あきらが、不意にルナの手を取った。つながれたあきらの手は、熱気に包まれていて、力強い鼓動が手の平と指先から聞こえてくるようだった。

「かしこまりました」

手を握ったまま、ルナはこうべを垂れた。つないだままの手の甲に滴が垂れて、熱い点をひとつ作った。