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「ごめん、涼川さん!」

ホテルのロビーで、奏は深々と頭を下げた。その手にはチェックボックス……スーツケースの一番奥で、昨日着た衣類に埋もれていた……が握られている。もちろん、中にはパープルのタイヤを履いたエアロアバンテが収められている。

到着して念のため、とスーツケースを開いた瞬間だった。フロントで問い合わせるまでもなかった。カウンターの奥にある時計は、ちょうどトーキョー行きの新幹線「あいな6号」の発車時刻を示している。

「ちょっと私、どうかしてるわ」
「いや、それは今朝から、ずっとそうでしたけど」
「うーん、こんなはずじゃ……」
「まあ、最悪の最悪は回避できたんだから、いいじゃないですか。あとは二人で帰りましょうよ」

あゆみは、財布におさめた切符を取り出す。指定席券はどうせ使えなくなるのだからと、たくみに渡す直前、乗車券だけを二枚、抜き取ったのだ。あゆみは、切符の券面に目を落とした。

「ぐぇ?」

奇声と共に、その手が止まった。

ロビーの床に広げてしまった荷物を片づけていた奏が、異変に気付く。

「涼川さん、何?」
「……やっちまいました……」

その時、奏のスマートフォンが振動を始める。画面には、「早乙女たくみ」の文字がある。

「もしもし?」
「あの……あゆみ、そこにいます?」
「いるけど……どうしたの? あ、マシンは見つかったから安心して」
「あ、そうですか」
「そうですか、っと私たちの命よりも大切なマシンよ?」
「そうですけど……いや、それより、ちょっと、あゆみの持ってる切符を見てほしいんですけど」
「切符? 今ちょうど涼川さんから受け取るところだけど」

妙に落ち着いたたくみの声、完全に固まっているあゆみの姿。奏は不振に思いながら、切符を見た。

「えーと、二枚あるわよ」
「なんて書いてあります?」
「何なの? 指定席券って書いてある」
「もう一枚は?」
「え? もう一枚も同じよ」
「ああ……やっぱり……」

電波越しでも、ため息の深さがはっきりとわかる。

「どういうこと?」
「あの、会長、こっちには、乗車券が五枚あるんですよ。つまり」
「えーっ? 乗車券がなくちゃ、私たち新幹線に乗れないじゃない?」
「そういう事なんですよ……」
「涼川さん……」

どうしよう、と声をかけようとした瞬間、あゆみは膝から崩れ落ちた。散らばった荷物と、放心状態のあゆみ。奏は努めて冷静になろうと、胸に手を当てた。朝から周囲に向けて放っていた注意が、しばし緩まる。

「わかった、たくみちゃん。こっちは何とかするから、あなたたちは、安心して帰って」
「いや、安心って……どうするんですか?」
「大丈夫、また、後で、連絡するわ」
「わかりました……。こっちでできる事があればやりますんで」
「ありがとう、それじゃ」

奏はひとまず、スマートフォンをしまう。そして、荷物を一つずつ、スーツケースに戻していく。

(……どうする? ひとまず立て替えて、後で《財団》に請求する? いや……そもそも二人分の切符代なんて払えない……。普通の電車でゆっくり行く? 駄目よ、それでも払いきれないかも知れないし、明日は月曜日、授業があるんだから今日中に絶対帰らないと……。うーん、どうしよう……誰か助けてくれる人は……)

その時、奏の視界に一つの人影が入ってきた。大柄な男性。モダンなホテルに不釣り合いな和装。年の頃は還暦どころか古希をも過ぎているようだが、姿勢や歩き方には衰えは現れていない。

「すみません」

低音の、迫力ある声にフロント係が慌てて飛んでくる。

「このホテルに、恩田奏、という者が宿泊しているはずなのですが」

しまった、と思うが早いか、奏は男性のもとへダッシュした。

うかつだった。朝からこの瞬間を警戒していたはずなのに、忘れ物をして……正確にはしていないが、いや、そんなことはどうでもいいと奏はかぶりを振る……とにかく自分で墓穴を掘ってしまった。胸の内で舌打ちしながら、男性の肩をたたく。

「……おじい様」
「おう!」

ロビー中に響く声で、おじい様、と呼ばれた男性は返事をした。まだ多く残るミニ四駆選手権の参加者、一般の宿泊客、そしてホテルの従業員、すべての視線が男性と奏に集まる。

「おじい様? 会長の?」

硬直していたあゆみも、余りに意外な出来事に生気を取り戻す。

「探したぞ! 奏! どうしてオオサカに来てるというのに連絡一つよこさない!」
「おじい様、声が大きいです……もう、恥ずかしい……」
「はははは、許せ! わしの喉にはマフラーが付いてないからな! 直噴エンジンの直管仕様じゃ! がははは!」
「もう……」

奏が顔を赤くしてうつむく。

「へぇ、会長、あんな顔するんだ」

あゆみは、奏のスーツケースと自分の荷物を引きずりながら、二人のもとへ歩いた。

「あの、こんにちは、初めまして」
「おや、はじめまして。奏、こちらの娘さんは」
「あ、荷物ごめんね。……この娘は、私のミニ四駆チームのキャプテン」
「涼川あゆみです」
「おお! 君か!」

また一際おおきな声がロビーに響くが、二回目ともなると周囲の反応は冷めたものだった。

「いやあ、涼川の血はゆずれんな! おやじさんそっくりだ!」
「おやじ……ってパパを……涼川みのるをご存じなんですか?」
「存じてるも何も、かつて上司・部下の関係だったからな、あの男とは」
「ぇえっ?」
「まあ、立ち話もなんだ、せっかくだから、わしのガレージで茶でも飲んでかんか」
「ガレージ? 本当ですか?」
「ちょ、ちょっと待って、おじい様、涼川さん。今、私たち、ちょっと……いや、ちょっとじゃなく相当、困ってるの」
「はっ!」

奏の言葉に、あゆみは今おかれている状況を思い出した。忘れかけていたが、手に握られた指定席券は、もう一度見返しても乗車券に化けてはいなかった。現実に引き戻されて愕然とする間に、奏が祖父に事情を話す。

「……おじい様に頼りたくなかったんだけど……」

奏が、あゆみたちの前では絶対に見せない、はにかんだような、恥ずかしがるような表情を浮かべる。

「そういうことなら、わしに任せろ」
「本当?」
「奏のおじい様、切符代、立て替えてもらえるのなら、本当に助かります」

二人の目に自然と涙が浮かぶ。

「あゆみちゃん、ちとその呼び方はムズムズするな」
「あっ、ごめんなさい」
「わしにも名前がある」

もったいつけて、一つ咳払いする。

「わしこそ、株式会社《無我》創業者にして取締役会長、恩田光一郎だ!」
「えっ……株式会社《無我》?」

あゆみは、その名を聞いて反射的に一歩後ずさった。

「おじい様、そんな、父さんの会社の名前を大きい声で言わないでよ、恥ずかしい」
「ん? 恥ずかしいとはなんだ。譲ったとは言え、わしが立ち上げた会社じゃ。それにもう何年もしないうちにお前の代になるんじゃろ。堂々とせんか」
「へ? 《無我》が、会長の、お父様の……?」

あゆみは目を丸くする。

「まあ、この辺の話は道中でしよう。二人ともヨコハマまで送ってってやる。それ用のクルマをとってくるから、しばらくここで待ってなさい」

そう言って、光一郎は正面玄関から小走りに出て行った。

「ヨコハマまで、クルマで、送る?」

あゆみが口を開ける隣で、奏は頭を抱えた。