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株式会社《無我》。

ヤムラ製のクルマの性能を最大限に引き出す、チューンナップパーツを専門に扱うメーカーである。そして国内を中心に、ヤムラ車を使ったレース活動を行う《チーム無我》の運営主体でもある。
恩田光一郎はヤムラのレース活動を取り仕切る立場に長年ついていたが、本社との意見相違から独立。一定の距離感を保ちつつも、ヤムラのレース活動には不可欠なパーツメーカーという存在感を数年でを確立した。
ヤムラがグランプリレース活動を休止していた時期には《無我・ヤムラ》のブランドでエンジンのメンテナンスを継続。複数の勝利をあげてチャンピオン争いに絡むなど、世界の舞台で気を吐いた。
現在では国内の《ハイパーGT選手権シリーズ》をメインとしつつ、公道向けにもハイスペックなオプションパーツを世に送り続ける、国内有数のチューニング・ガレージである。

「……という会社なのよ《無我》は? なんで、次期社長がご存じない?」

ロビーのソファに腰掛けながら、あゆみは一方的にまくし立てた。

「知らないわよ、そもそも私は会社を継ぐつもりなんてないんだから」
「うーん……。そっか、会長が朝から落ち着きなかったのは、おじい様に見つからないかって心配してたからですか」
「えっ? 私、別に落ち着きなくなくなんてしてないでしょ?」

奏は、自分で証明するかのように両手をぶんぶん振って否定する。あゆみは、大きくうなずいた。

「うん、わかった、会長。朝からずっと、冷静で、落ち着いてました」
「ほら、またそうやってからかう。それよりもこんなことになったのは涼川さんのせいだからね。きちんと切符を確かめていれば……」

奏の言葉をさえぎって、爆音としか表現しようのない排気音が外から響いてきた。あゆみがソファから立ち上がり、外を見る。

「すっげー! あれ、マケラレーンZ1じゃん! 動ける本物って、この国にあったの?」

あゆみは満面の笑顔を浮かべながらホテルを飛び出していく。置きっぱなしのあゆみの荷物を自分のスーツケースにのせて、奏はゆるゆると後を追った。

「よう! 待たせたな! 3人乗れるクルマってこれくらいしかなくてな!
「すっげー! すっげー! マケラレーン! Z1!」

ツナギに着替えた光一郎には目もくれず、歩みはガンメタリックのクルマをなめるように見て回った。
低く構えたボンネット。左右に跳ね上がったドア。ミッドシップに搭載された十二気筒エンジンが、リヤウインドウの中で誇らしげに震えている。トランクは後輪前方のパネルの中。特異なレイアウトのクルマに、通りがかる人の視線が集まる。

「おじい様、もう、早く行きましょう」
「ん、そうだな。新幹線に追いつくのは無理じゃが、できるだけやってみる」
「うぉー! すげー!」

車体の中央に配置されたシートに、光一郎が座る。その両脇に、あゆみと奏が収まった。バケットシートは最低限のスペースしか確保されていなかったが、体全体を無駄なく包み込む。人間工学にもとづきデザインされた座面には、長距離のドライブでも安心してクルマに体を預けられる。奏は、朝から張っていた気持ちの糸が急激に緩むのを感じていた。

羽のように展開したドアが、電動で下りてロックされるのを確認すると、光一郎はゆっくりとマケラレーンZ1を始動させた。
街中をしばらく走ってからハンシン高速へ。リリースから三〇年を経たスーパーカーは、行き届いたメンテナンスによって極めてスムーズに進んでいく。メイシン高速へ入り、早くも京都を通過。光一郎のドライビングも、クルマをいたわるように、クルマの流れとマシンの調子を崩さぬように、丁寧な動きに終始していた。すっかり気が抜けたのか、寝息を立て始めた奏と対照的に、あゆみは、歴史的なマシンの動きに興奮しつづけていた。